飯舘村、凍み餅お届けの旅紀行

 先週実施された凍み餅お届け。当日のようすを八峰村の渡辺村長がまとめてくださいました。長文になりますが、以下にそのまま掲載します。前回アップした写真と合わせてご覧ください。

 3月6日、6時半、今年は厳しい寒さに見舞われたが、今朝は何と雨模様で、温かい。
 長野朝日放送の取材を受けながら、1月末から2月にかけて作った凍み餅一連7個を80連、約560個を車に積みこんで、町の駅農産物加工所に向かう。加工所では加工部会のメンバーが野沢菜漬け体験用の素材を用意しており、それらを積み込むと後部座席を折りたたんだ小さな車の車体が大きく沈む。
 用意した野沢菜は、生が20㎏、昨夜から塩漬けし、水出しをした野沢菜40ℓ一樽、切れば食べれるように、漬け込んだ野沢菜が発泡スチロールの大きな箱、長さ80㎝タテヨコ30㎝から40㎝ものが1個、それに市販向けにと地元有坂食品より提供された商品化された野沢菜漬けパックが200袋。キムチ体験用に白菜を15個等などである。
 役場で八峰村メンバー6名と野沢菜漬け女流名人2名と合流、田舎では漬物ができて一人前の主婦(?)。そば粉20kgも追加し7時45分、一路飯舘に向かう。
 佐久南インターから高速に入り、12時半の到着予定に向け、快調に飛ばす。しかし郡山辺りから渋滞が始まり、ノロノロ運転に。予定時刻が刻々と迫る中、飯舘の菅野さんより電話が入る。震災により痛んだ道路の修復で渋滞が発生しているとのこと。加えて松川ICで高速を降りるはずが、パーキングの出口を間違えて福島西ICまで行き過ぎて、そこでUターンの不始末。結局予定の昼食場所でお迎えの飯舘一行と合流したのは1時間遅れの13時半。
 早々に釜飯ごはんをご一緒し、用意した素材を移し替え、菅野哲さんをはじめとする飯舘の皆さん4名の先導で、飯舘村に向かう。あらかじめ入村許可を得ていたので問題なく村内に入る。 福島から飯舘までおよそ1時間。小海と違って山々の頂きは比較的低くてなだらかで、広がり感が全く違う。仮設の避難所や隣村に建設が始まった中学校などを見ながらの旅である。一つ一つに実感の籠った解説が付けられる。余所の町に学校を作っちゃってどうすんだ、いつになったら仮設から出られるんだ、仮設で暮らして早一年、仕事もないし農地もない、従って何もすることがない毎日が何ともつらい、などである。
 この間、小海から、そして菅野さんも自前の線量計を持参しており、刻一刻変化する線量に目を凝らす。地形により、風の流れ、雲の流れにより、飯舘村は最悪の条件下に晒されて、多量の放射能汚染に見舞われたとのこと、それを示すように移動の車中でも無情の値が刻印される。目に見えないということの怖さ、これは自身に言い聞かすしか方法がない怖さであり、しかし言い聞かす言葉が見当たらない怖さでもある。身に忍び寄る恐怖が何もないことの怖さをどのように、何と言い表すか、
 飯舘村は、広々と感じられる丘陵の村といった印象である。まずは役場に到着。立派な役場で大金をかけて作られた由。特産の石材や木材をふんだんに使用し、物産の見本場を兼ねた施設になっている。
 役場前の広場には、頭を撫でると演奏が始まるお地蔵さんが心を癒す。子供たちの心は弾むだろう。町では辺り一面、総面積45haを買い上げ、宅地供給や運動場整備などを整備、市街地として大がかりな町づくりが行われたようである。この立派な役場に今は職員がたった2名。交代で管理を兼ねて詰めている。無人の廃墟、というフレーズはよく使われるが、無人の、しかし立派で豪奢なとも言える施設の配置を何と表現するか、現代文明の負の姿として、皮肉な笑いを誘われる。
 市街地は役場から少し離れた場所にあり、メイン道路を挟んで唯一営業中のガソリンスタンドと民家や農協などの施設が点在している。その一角にある菅野哲さんの自宅を訪問、驚きは玄関わきの雨水枡で、線量計の針が一気に13〜14マイクロシーベルトに跳ね上がる。それでもこのエリアは除染作業済のエリアと聞いて二度びっくり。国が進める除染⇒安全宣言⇒帰村という構図への疑問が大きく湧き上がる。帰りたいが帰れない、という飯舘の皆さんの切ない思いと、それを逆なでするような方針に、不信の極み、そして怒りを通り越した何とも言えない思いに胸が益々締め付けられる。この時の飯舘は、穏やかな春を思わせる日差しが降り注いでいた。
 飯舘を後に、津波被害の現地を訪問した。南相馬市である。
とにかく何もない。海岸から2㎞付近に車を止めて周囲を見渡すが、1軒の松林に囲まれた2階建ての民家の1階が、柱を残すだけの状態で目に映り、それが唯一、被災地であることを、なんとなく、としか私には見えないのだが、実証している。屋敷林の効果で倒壊がまぬかれたようである。道路わきには家屋が立ち並んでいたとのことだが、面影は一切残っていない。よくよく地面を探すと、土台のコンクリートが見出される。やっぱり家屋があったんだ、と納得するも、何とも被災地としてのイメージが湧きあがらない。過去に照合する記録がないのである。そうだ、と言われれば、そうですか、と頷くしかない。
 海岸部の松林も根こそぎ、浚われた、とのことで工場団地の造成後の姿のようである。
 堤防の決壊も、その規模が大きいと、意図して人工的に切り取ったようで、あるいは未着工のような状況に見えてしまい、映る景色に違和感がない。無秩序に破壊した、という印象が湧きあがってこないのである。
 とその時、軽乗用車が急停車し、若い30代後半位の男性が、痛烈な怒声を浴びせながら降り立ってきた。お前ら何してる。ここで何人の命が奪われたと思ってるんだ、なのにお前らの態度は何だ、手を合わせるでもなく、ヘラヘラ、ニヤニヤして、・・我々の表情から、そのような印象を読み取ったのだと思う・・そして俺は両親と幼い二人の女の子を奪われたんだ、とも。
 私はこの時初めて青ざめた。そうなんだ、想像もできないような悲劇が此処では起きているんだ、と知らされ、気づかされた。言葉がない。若いお父さんも、怒りの表情をより厳しくしつつも、次に発する言葉がないようで、ただただ、こぶしを握り締めている。
 飯舘村の菅野栄子さんという凍み餅づくりの名人が、私たちは飯舘村放射能汚染の被災者で、この方たちは私たちを支援してくれている人たちです、と詫びながら、穏やかに言葉を返す。配慮が足りませんでした。何とか収めてください、と言葉を継ぎ、皆で改めて合掌し、冥福を祈った。
 夕闇迫る津波の被災地を後に、凍み餅の引き渡しの施設に向かう。車中はしばし無言で、皆々、今の出来事を各様に噛みしめているようである。一見何もない風景の下で、多くの人が苦しみ、悲しみ、嘆き、絶望の中でもがいているのである。
 引き渡しはえびす庵という割烹旅館で、飯舘の被災者が経営を始めた施設である。本業はうどん専門店で、宿泊は最近始めたとのこと。定休日を無理して開けて頂いた。
 凍み餅はリンゴ箱一杯と平らな木箱の2箱で手渡す。
集まった10数名の飯舘村の方々からは、絶賛の言葉が飛び交った。嬉しかった。本当にうれしかった。こんなに喜んでもらえるなんて。
 栄子さんから120点満点を頂いた。合格の言葉も。
 皆々、手に取って出来栄えを語り合う。
 飯舘より出来は良いかも、とか、寒さが飯舘よりもっと厳しいから、きっといいものができるんだ、とか、寒すぎて少し割れが入っている、とも。今年は小海の寒さは異常だ、という返す言葉も行き交った。言葉を行き交わせつつ、我々も一様に歓びに沸いた。笑顔が行き交った。
 復興と再生を、そして小海も頑張るぞ、と挨拶をして乾杯。以降の懇親会の進行は何が何だか分からなくなった。
 パパの牛乳、という訳ありの大吟醸酒(?)に舌鼓を打ちつつ、この笑顔の連鎖を絶やさないこと、何としてでも活動を継続することを心に誓った。
 翌日は野沢菜の漬け方と多様な調理法の講習と小海風vs飯舘風ソバ打ちの競演。
 昼食にそれを試食し、双方の伝統の味比べ、技の交流を図り、凍み餅お届けの旅を締めくくった。
 災い転じて福となす。類まれなる大“災い” と、今まさに生まれようとしている小さな小さな“福となす”試みに、確かな手ごたえを感じ取り帰路に立った。