雑草・雑木・雑魚

 雑草=たくましい、雑木=郊外のオアシス、そんないいイメージもたしかにあります(雑魚のいいイメージってあったっけ?)。でも、雑草・雑木・雑魚は、文字どおり「その他多勢」ならまだいいほう。たいていは厄介者・邪魔者としてとりあつかわれる。じっさい排除あるいは抹殺されてきました。
 農業では刈り取られたり(わたしもしてます)薬殺され、林業とくに人工林では伐採され、漁業では人間が食べる魚介類と一緒に網ですくわれ打ち捨てられる。要は、カネにならないものは価値がない。自給栽培でも雑草はたいてい嫌われる。草茫々では周囲に申し訳ないという気持ちもあります。
 最近、インド人のヴァンダナ・シヴァという女性の書いた「食糧テロリズム多国籍企業はいかにして第三世界を飢えさせているか」(明石書店)と「生物多様性の危機―精神のモノカルチャー」(三一書房)という本を図書館から借りて読みました。これらの本では、雑草・雑木・雑魚が、人間にとって重要な生物資源であることを訴えています。単に生態系の維持に必須だというだけではありません。商品化されなくても生きていくために有用かつは欠かせないもの。
 1950年代から、いわゆる緑の革命が世界規模で進行しました。化学肥料と農薬をセットにして単一種作物を大規模栽培するモノカルチャー。そこでは従来から地域でつくられてきた多様な作物は打ち捨てられました。住民たちは商品作物をつくって、自分たちが食べる食糧は購入する(せざるをえなくなる)。奴隷が働いていた植民地のプランテーションさながらですね。
 たとえばインドでは50年前まで、何万品種ものコメが栽培されていたそうです。それが緑の革命で、わずか10種類くらいまで減ってしまう。小麦も同様でした。この変化を選択した(させられた)のは住民自身だったでしょう。でもそこでは、巧みなセールストークが駆使されたはずです。収量が多いとか、高く売れるとか、豊かになれるとか。たいていは政府と多国籍企業が一体となっているので威力は抜群。ある種のマインドコントロールだったのかも。
 同じような状況は日本でも進行しました。専業農家の多くは売るためにつくっている作物以外は購入しています。トマトが桃太郎一色に染められかけたときもありました(とくに大玉では現在も)。コメではコシヒカリ全盛時代がありましたね。農業の大規模化は依然として自民・民主に関わりなく主要な政策目標でありつづけています。
 そういえば以前、大規模なコマツナ生産農家でアルバイトしていたとき、東北の農村出身者が出稼ぎにきていました。やたら野草に詳しいその人いわく「7〜8割は食べられる」。周囲の雑木林に分け入れば、どんな木なのか聞けばすぐに教えてくれる。彼の生まれ育った地域での生活が想像できるでしょ。
 地域おこしの専門家(アドバイザー・コンサルタント)と称する人たちは、「ないものねだりより今あるものを活用する」とか「眠った資源を掘り起こす」とかを常套句のように言っています。眠った資源て何でしょうか。たぶん「眠った」ではなく放棄した(させられた)資源、結果的には忘れられた資源ではないでしょうか。そこには文化の断絶があります。
 以上、「雑なヤツ」と思われ自認もしている人間による説得力のない話、失礼いたしました。