凍み餅づくりと復興支援・・飯舘村支援交流の今後

 八峰村の渡辺村長から、先日の飯舘村交流会についてまとめた文書が届きました。以下その全文を掲載します。

 凍み餅交流をはじめて丸2年
 東日本大震災原発事故による放射能汚染で、故郷を奪われ、避難生活を強いられている飯舘村の皆さんに、冬の郷土食、凍み餅を提供し、元気になって頂きたい、との想いで取り組み始めた凍み餅づくり交流も丸2年経過、3年目を迎えようとしている。
 この間、お互いに行ったり来たりの交流を進め、今回は凍み餅用もち米の稲刈りと混ぜ込むゴンボッパの栽培指導、そして避難生活の疲れを癒していただきたい、と1泊2日の交流会を開催した。
 飯舘村からは、菅野哲さん、栄子さん、今野さんご夫婦の4名が参加。
 皆さんお元気で、栄子さんの足の運びが少々心配されるが、でも気持ちは相変わらずのお元気そのもので、励ます方が励まされるありさまであった。
 28日の交流初日の活動は、凍み餅に入れるゴンボッパの生育状況のチェックと、種の確保と越冬の方法について教えて頂いた。
 八峰村の畑の一部に設えたゴンボッパ畑では、50〜60株ほど、しっかりと根付き、使用する葉もかなりの枚数、収穫し乾燥させ、保存するに至っている。でもまだまだ足りない。
 とにかくゴンボッパ不足を克服しなければ、話にならないのが現状であり、大変なテマヒマを要する取り組みになりそうである。
 夕方、地元の八峰の湯温泉で長旅の疲れを癒していただき、夕食を兼ねて八峰村メンバーとの交流会を開催。メンバーが経営する旅館では、地元の食材を使った郷土料理を安価に提供していただき、八峰村で栽培した酒米でつくった地酒こうみざかりで乾杯。久しぶりの和気藹々の交歓会となった。

 怒りを伝えないメディア
 交流会の中で、今、飯舘村がどうなっているか、まずは話をお聞きした。
 挨拶に立った哲さんから、新聞、テレビなどが報じる内容が、楽観的で、いかにも大丈夫である、という認識を世間に盛んに周知させるような方向で報道されている、という指摘が強い怒りの言葉で語られ、メディアは、頑張っている姿や支援に感謝している姿ばかりを報道し、怒りの場面は殆ど報道していない、と語った。
 話しを聞いていて、そのことの真義を実はすぐにイメージできなかった。
 怒り、怒りの場面とは何か、哲さんの言う怒りが報道されていない、ということの意味は、避難生活者の心からの訴えが届いていない、ということで、これをメディアは掘り下げて、取り上げてくれない、ということだろうと、やや時間を要したが理解できた。
 我々は大自然の惨い仕打ちに怒っているのではない。それは仕方ないことでもある。問題は、放射能問題で、それは自然の災害とは全く別物で、しかもその後の国や県や市町村などの対応に対するものであることは一目瞭然で、そこで行われていることの理不尽なことに対する住民の怒りを取り上げろ、と訴えているのだ。
 怒りを取り上げること、それは他方で怒られる側の事情、立場と取り上げたことに対する反動などが想定され、それらを考慮した時、もっとも無難な方法として、歓びや悲しみという、多くの人に共感を呼び起こし、反論の余地を与えないような切り口での報道が選択される。そんなことを推測させる報道の姿勢を哲さんは怒っているのである。そして、そのような報道の先に、忘れよう、忘れさせようという意図を感じる、と哲さんは語っている。哲さんいわく、最近、私の出番が少なくなった。それを聞いて、そういえば今回のイベントには、長野のメディアは1社も来ていない。今まではテレビや新聞が折々に取材に来ていたのだが、などと多少いぶかった。
 放射能は減っていない、従って飯舘村には帰れない、と哲さんは断言した。福島の子供たちの甲状腺異常は他県の5倍とも語っていた。これが飯舘の現実なのだ、と改めて認識した。

 支援の枠を超えて・・凍み餅を小海の特産に・・
 受け入れ側の私は、事情を聞きながら、いかにして、忘れないようにできるか、忘れないために、これからの凍み餅づくり交流をどのように展開したらいいのか、大きな課題、壁の存在を感じさせられていた。
 八峰村でも、小海町でも支援の熱は以前ほどには燃え上がらず、新たな取り組みを用意しないと活動が維持できないではないか、という思いに駆られている。
 そんな思いを抱く中で、飯舘の皆さんより、これを機会に凍み餅を小海の特産に育て上げたらどうか、という提案が寄せられた。
 この2年間の交流で、凍み餅製造とゴンボッパ栽培のイロハは判った。これからは、この凍み餅を一方で地元の特産品にし、他方で福島方面でまだまだ続きそうな避難生活中の方々に、郷土の味を届け、元気を出してもらう。そのために飯舘の皆さんにも販売などを手伝って頂き、多少でも収支が見込めれば持続性が確保できる。気候が取り持った多少の縁を大切にして、信州・福島という広域連携による事業として自立を目指す。そんな取り組み方がお互いの口から語られた。

 農作業、里山歩きこそが癒しの原点
 翌29日は早朝から凍み餅用のもち米の稲刈りである。
 好天に恵まれ、清々しい高原の空気は、慣れて居る筈の地元住民にすら、一層の感激を覚えさせるような清澄感に満ちた朝であった。
 飯舘の皆さんは、このような清々しい空気をどんな思いで胸に深く吸い込んだのだろうか、口には出せなかったが、故郷の空気を吸うことが叶わない飯舘の方々に、深く同情の念を抱いたのは、私一人だろうか。
 稲刈りは天気の後押しもあり、予定時間を1時間も前倒しして終ってしまった。
 最初は三々五々、おしゃべりをしながらの刈り取りであったが、少し経つと本気モードにスイッチが入り、無口で一目散の取り組みに様相が変わり、皆々、昔を思い出してか、百姓仕事に我を忘れることになる。腰を伸ばし、痛みを時々和らげながら、皆々を見回し、負けていられない、と再び刈取りに入る。そんな光景があちこちで繰り広げられながら、1反歩の半分程度(半分は事前にボランティアが刈り取っておいた)を刈り取りを終え、ハゼ掛けして稲刈り体験交流を終了した。
 あぜ道でのお茶は最高である。
 昼食時間に1時間ほど空きができたので、付近の里山を散策、後背の山々はカラマツに加えて赤松が多く、マツタケの産地でもある。止め山と言って入山が規制されているのであるが、そこは地元メンバーの通いなれた山。支障のない範囲で一行を案内。実は小海町では放射能の影響が報告され、キノコの採取と販売は規制されている。隣接の村は大丈夫で、小海町ではなぜだめか、そんな声も強いのだが、これが現実なのである。マツタケ放射能検査は、検体に用いる材料費が嵩むので、誰もやらない。やれば大丈夫ではないか、との声もあるが、そこまでして、という考えと、適当に自己責任の名の下で、採取して食べている住民が大半(?)で、 実は私も食べている一人である。
 山の散策も飯舘の皆さんには好評で、昼食時間になっても戻ってこない。
 故郷の山に入れないもどかしさ、入っても実りの秋を全く享受できない無念さ、腹立たしさ、そんな思いが僅かな時間の里山散策で、改めて実感されたのではないだろうか、
 昼食のメインは、もちろんマツタケご飯である。八峰村メンバー数名が早朝に採取して提供してくれた逸品で、箸の先で探し求めるような都会のマツタケご飯ではなく、これでもか、という具沢山のご飯に皆さんの笑顔はまさに満面。お代わり自由の大判振る舞い。
 おかずは全て地場産もの。ゴンボッパ畑で栽培したモロッコインゲンやミニトマト、カボチャ、ささぎ、岩茸、ジャガイモ(ポテトサラダ)などなど。揚げてよし、焼いてよし、煮てよしの逸品ばかりである。
 参加者全員が自己紹介と交流の意義や楽しさなどを交歓、飯舘よりお土産として頂いた福島さんのナシを分け合って散会した。

 忘れない、そして継続型の支援・交流活動をどう進めるか・・
 もち米と酒米、そしてゴンボッパが手当てできたので、さてこらから冬を迎え凍み餅づくりの段取りに入る番である。まずはゴンボッパの前処理作業があり、これは加工部会に委託。今年の第1回凍み餅づくりは12月中旬から下旬、寒さ次第である。これらに取り組むためにも、
 1.これらの活動に、新しい力が必要である。八峰村メンバーも飯舘の皆さんも高齢化が進ん   でいる。お互いに若い人に参加して貰うこと
 2.交流や加工に必要な経費の調達をどうするか、テマヒマを提供してくれるメンバーに気持   ちだけでも伝えられるような対価を提供できないか
 3.交流や凍み餅づくりが一過型でイベント的な取り組みで終始するのでなく、日常の生活/   生業の一部になるような取り組み方法が創り出せないか
 4.他の支援団体との連携、交流で点から線、そして面となるような間口の広い取り組み方が   できないか
 そんな思い、課題を胸に抱き、思い起こしつつ、ハゼに下げられたたわわに実った稲穂をバックに、飯舘の皆さんを見送った。