泥の濁流

 最近、「土の文明史」(デイビッド・モントゴメリー著、築地書館刊)という本を図書館から借りて読みました。副題は「ローマ帝国マヤ文明を滅ぼし、米国、中国を衰退させる土の話」。文字どおり、土壌破壊が文明を滅ぼしてきた歴史です。
 農地が失われていく。表土流出。土が痩せ、あるいはなくなり、耕作放棄せざるをえなくなる。現代の環境問題のひとつとしては、おなじみのテーマではあります。第2次大戦後は食料生産が飛躍的に増えました。化学肥料と農薬をセットにした、いわゆる緑の革命です。この革命は人口を増やしただけでなく貧困と飢餓も生み出しました。それまで自給生活を送ってきた人たちが、大規模モノカルチャー(単一作物栽培)のもとで、売るものはあっても食べるモノがない状態におかれてしまう。その過程で進行する砂漠化。
 こうした問題は現代特有とはいえない(拍車がかかっているのは現代だとしても)。農地喪失の問題は古代から指摘されていました。保全対策についてしるされた文献も数多く残されています。でも、その提言が活かされることはほとんどなかった。古代文明の地の多くは砂漠と化し、地中海沿岸は緑少ない岩山がいまや特有の風土とさえ思われています(たとえば和辻哲郎の「風土」参照)。
 それでも新しい土地があるうちはまだいい。かつては森で覆われていた島アイスランドに砂漠があるなんて思いも寄りませんでした。ちょっと前のハイチ暴動の背景に農地喪失があったことも初めて知りました。モアイ像で有名なイースター島が文明の地であったことは多くの方がご存じでしょう。
 なぜ同じ過ちが繰り返されたのか。ひとつには表土流出が目に見えにくいからかもしれません。身近なところでは八峰村の畑が思い浮かびます。大雨の降ったあと畑に行くと、とくに傾斜地では水の流れが見てとれる。それは、土が下方に流されてた跡でもあります。でも、その畑ですぐに作物ができなくなるとは思わない。たぶん10年単位くらいで農地を見ないと変化には気がつかないままでしょう。
 なんてことを思っていた矢先の先日6/29(土)、小海周辺は夕刻土砂降りの雨になりました。千曲川沿い宮下地区で知人の農作業を手伝っているときに雨が降りはじめ作業中断。自分の足である自転車を置いて宿泊先の松原湖高原まで車で送っていただきました(きつい坂道を自転車で登らなくてすんだのは嬉しかったのですが)。
 八峰村の畑周辺には高原野菜の農地が広がっています。宿泊先への帰宅途中、その高原野菜農地のなかを突っ切ったのですが、道路というより川の強行突破。排水路からは泥水が濁流となって道に溢れる。低地は泥水が何十センチもの深さに溜まって車が走れる状態ではない。そんな場所を避け迂回して、どうにか宿泊先までたどりつくことができました。国道141号の松原湖入り口交差点から県道を八峰の湯方面に登っていれば苦労しなくてすんだはず。でも泥の濁流はきっと経験できなかった。
 濁流とともに運ばれたのは、野菜を育てる表土です。表土がなくなれば野菜は育たない。小海でも豪雨があるといつも同じような状態になるのでしょうか。じっさいにこの目で泥の川を見たのは初めてでした。失われた土は新たに山を切り崩して盛り土するなど、いずれなんらかの方法で補填しなければならない。
 翌日、同じ場所を車で通ってみると、泥が溜まった低地部の道路では、重機を使った除去作業が行なわれていました。泥を山の斜面に捨てる。いずれは再び雨で流されて千曲川に注がれる。千曲川下流部、たとえば飯山あたりでは、川床が上がって問題になっているという話もどこかで聞いた覚えがあります。もちろん、小海の畑の土だけが千曲川に流れ込んでいるわけではない。さらに上流の野辺山や川上村あたりでは、小海以上に大規模な高原野菜農地が広がっています。もちろん川床上昇の原因が農地だけにあるわけでもない。
 豪雨翌日の千曲川本流の濁りは思ったほどではありませんでした。多少なりとも青みのある流れ。単なる気休めでしょう。具体的には千曲川本流部と支流部でどう変わるのか。このへんは、まだまるでわかっていない自分です。